070810 学習会
マジョリティにとどく言葉
〜誰に向かって何を伝えるのか〜
池添 徳明(フリージャーナリスト)
2007年8月10日(金) 18:30〜20:30
市原市民会館 3階大会議室
資料代 500円

● 講師 プロフィール いけぞえ のりあきサン
・新聞記者を経て、1999年6月からフリージャーナリスト。
・教育・人権・司法・メディアなどの問題に関心を持って取材。
・大岡みなみのペンネームでも執筆。関東学院大学非常勤講師(現代ジャーナリズム)。
・著書 『日の丸がある風景/ルポ・問われる民主主義のゆくえ』(日本評論社)
『日の丸・君が代と子どもたち(岩波ブックレットNo.517、共著)
『裁判官Who's Who/首都圏編』(現代人文社、編著)
『めざせロースクール、めざせ弁護士』(阪急コミュニケーションズ、共編著)
『教育の自由はどこへ/ルポ・「管理と統制」進む学校現場』(現代人文社)
● 学習会のねらい
市民連絡会が活動をはじめて、3年が過ぎた。市民の過半数の「改憲反対署名」を集めて、衆参両院議長に提出するのが目標である。そのために、学習会・講演会を開き、定期的な街頭宣伝もしてきた。
しかし、事務局会議への労組からの出席は数えるほどである。組合員の中には市民連絡会の活動と地区労の活動との区別がついていない者もいる。学習会・講演会への参加者数もじり貧で、顔ぶれはいつも同じように思われる。最初は顔を出してくれていたわたしの同級生たちも来なくなった。事務局会議への個人としての参加者は2〜3名の増加にとどまっている。自由を守る憲法を守ろうという運動なのだから、組織による動員ではなく、自発的参加であってほしいのだが、それにしてももう少し増えてもよいのではないか。そして肝心の署名は、もちろん集まっていない。
君が代問題をきっかけに、池添さんのサイトにある「身辺雑記」を愛読してきた。そこには、教組を取材した際の「仲間内だけの運動で、これじゃあ、社会に訴えることは出来ないと思う」という感想が繰り返されていた。
この問いかけこそ、わたしが、この企画を思いつくきっかけとなった。やれるだけのことはやってきたつもりなのに、それでも仲間が広がらないということは、われわれのやり方に問題が潜んでいると考えるべきだろう。それを考えるために、池添さんの話を聞こうと。市民連絡会の活動を分析するというやり方もあるが、これまでの取材体験をもとに一般論としての「労働運動・市民運動の問題点」を述べてもらい、われわれが、われわれの活動を振り返るきっかけにしようというわけだ。
● レジュメ
マジョリティにとどく言葉 〜誰に向かって何を伝えるか〜
池添 徳明
一 『金太郎飴」の市民運動
・原告団、運動家、支援者、、仲間うち、身内、もともと関心のある人を相手に
・集会参加者の顔ぶれはいつも同じ
・記念講演→支援団体の報告や主張を延々と→決意表明→決起集会、デモ
・市民運動や労働運動に共通の傾向、パターン
・気勢を上げて団結を確認、問題意識を深める学習も大切だが…
・聞き飽きた?演説の繰り返し、自己満足?
・「○○はケシカラン」「俺たちは正しい」「世論に包囲されている」
・世論喚起につながる? 幅広い支持や共感は広がる?
二 世間は「事実」を知らない
・「みんな関心を持っている」と思っているのは当事者だけ
・現実をしっかり自覚することから
・まず「事実」を知ってもらう
・外に向かって、事実を丁寧に分かりやすく訴えることの大切さ
・無関心層を耕す地道な作業 → 幅広い世論の共感・支持
・「戦場は法廷外に」
三 だれに向かって何を発信しようとするか
・だれに何を伝えたいのか
・発想の転換、タコつぼ的な発想からの脱却
・自分自身の意識改革を
・そもそも身近なところは(家族、友人、地域、学校、職場)
・問題の本質は日ごろの「コミュニケーション」
・外に向かって支持を広げる
・訴えかける対象は
四 旧態依然とした発想から抜けだそう
・「普通の市民」が足を運ぶ(運びたくなる)イベントに
・「普通の市民」が手に取る(読みたくなる)ビラ・文章・言葉に
・面白くてナンボ、読みやすくてナンボ
・全部を言わない、書かない、詰め込もうとしない
・言いたいこと、伝えたいことの「1割」を表現する
● 池添徳明さんのメッセージ
(1)マイノリティ(少数派)の自覚
労働運動や社会運動の取材を重ねるうちに、非公式の集まりにも招かれるようになってきた。そうしてわかったことは、みなさんが、自分たちが社会における多数派で、市民から支持されていると誤解していることだ。
だが現実は違う。マジョリティである一般市民は、たとえどんなに大きく報道されようと「日の丸・君が代」の問題点を正確にはわかっていない。だから裁判闘争の当事者の立場を理解できてはいない。
まずは少数派であることを自覚しよう。
(2) 世論(マジョリティ)に訴える
裁判官は、憲法により「裁判官の職権の独立」が保障されており、裁判をするにあたっては「良心に従い、憲法と法律にのみ拘束」されることになっている。
だが実際には、裁判官は最高裁判決の動向に敏感である。そして最高裁は世論の動向に敏感である。ワイドショーで頻繁に取り上げられる山口県光市の母子殺人事件は、被告人の少年を死刑に出来るかが焦点となっているが、これも世論の厳罰主義に影響を受けている。
だから、裁判に勝とうと思ったら、世論にに訴えること、世論を喚起することが必要なのだ。一般市民に「事実」を伝えて、知ってもらおう。
(3) だれになにを伝えるか
たとえば講演会を開く場合、まず「だれを呼んで、なにを話してもらうか」から始める。これが逆なのだ。
「だれになにを伝えるか」。ここが出発点だ。まったく無関心な人たち、偶然の参加者の立場に立って、企画を進めるべきだ。
たとえば「笑い」をベースにして、主張を少しだけ入れる。偶然の参加者は、面白いと感じる中で「新たな発見」がひとつでもあれば、得した気分になって「次もまた来よう」という気になるだろう。
(4) 読まれるビラ・チラシを作ろう
ビラやチラシを作る際、まずは「なにを伝えたい」かを考える。「見出し」「小見出し」を考える中で、伝えたいことが整理され、効果的な表現も生まれてくる。
「言いたいことの1割」を書けばよい。あれもこれも書こうとするから、文字ばかりでわかりにくくなる。ビラやチラシは読まれなければ意味がない、読まれてナンボである。
● レポート
(1) 予想を上回る参加者
テーマが内向きで、事務局メンバーだけでもよいような内容ともいえるものだったが、40名を超える参加があった。みなさんの意識の高さであろう。
「わたしたちは正しいことをやってきた。いまさら見直す必要などない」という感情的な反発が出ることも予想されたが、それはなかった。どんなに真っ当なことをやっていても、仲間が増えないのであれば、その点でやり方を改める必要はあるのだ。
(2) 図星だ
@ 学習会や講演会の企画の進め方は、池添さんの言うとおりだ。わたしたちは、わたしたちの問題関心に合わせてテーマや講師を決めてきた。そんな企画に一般市民を多く参加させようというのは、どだい無理な話だったのだ。
学習会と講演会とでは、働きかける対象を区別することも必要だろう。たとえば学習会は、運動の核となるメンバーが理論武装するための学習機会と位置づける。講演会は、一般市民が楽しめる=むずかしくない内容の啓蒙企画にするという具合だ。
A マス・メディアに取り上げてもらおうと思ったら、記者が興味をそそるような内容にすべきだという。
どこの会も同じようなことをやっているのだ。容易には取材に来ないであろう。そのうえ当会は、メディアへの宣伝を近頃はまったくやっていない。
B 若者の参加が少ないとなげくばかりで、その対策もなにもしていない。
C 街頭アンケートなどを企画しても、それを成功させるための戦略も戦術もなかった。
(3) 気になること
最近、気になることがある。街頭ビラまきの際、「九条を守りましょう」とか「平和憲法を守りましょう」と声をかけることが多い。そうすると「憲法を変えましょう」とか「要らない」と明確に意思表示する方が目立つようになっているのだ。
どんな考えを持つ方なのだろうと考えているとき、われわれの運動が既成政党の護憲運動と同じ、つまり自衛隊否定して非武装を貫こうとする運動だととらえられているのではないかという疑問に突き当たった。
われわれの運動は「九条を守ろう」の一点で集結しているというが、それはイコール非武装ではない。われわれは、自衛隊は違憲だから廃止すべきだという考えから、国土防衛に徹する自衛隊ならいいじゃないかという考えも、海外出動もPKOなら国際貢献になるし、いいじゃないかという考えも認めるだけの懐の深さを備えている。われわれは、日本をアメリカと一緒に戦争が出来る国にするための「自民党的改憲」に反対するため「九条を守りましょう」と言っているのだ。九条二項がある限り、アメリカと一緒に戦争をする根拠となる集団的自衛権を行使できないからだ。われわれは、九条の文言を変えさせないことで一致して活動をしているのだ。
従来の護憲運動とは異なることを市民に知ってもらうために、この点を前面に打ち出す必要があるのではないだろうか。
ちなみに07年4月以来の県議選・市議選において、市民連絡会参加会派の候補者の絶対得票率は9%であり、参議院比例代表区での護憲会派の絶対得票率は7%であった(全国では9%で、3年前より0.3%増加)。各種世論調査では「九条を変えることに反対」は60%に達していると言われているが、選挙となるとこの数字である。60%という数字は自民党や民主党支持者に負うところが大きいと推測できる。
われわれは、このような人々からも指示される運動を繰り広げなければならないのだ。(07.09.04記)